2013年 4月の茶道講座
【利休百首】
●棗には蓋半月にてをかけて茶杓を円く置くとこそしれ
●薄茶入蒔絵彫もの文字あらば順逆覚えあつかふと知れ
【一無位真人(いちむいのしんにん)】
【騎牛帰家(きぎゅうきか)】
【利休百首】
●棗には蓋半月にてをかけて茶杓を円く置くとこそしれ
棗は足利義政の時代に、京都妙覚寺法界門の傍に住んでいた羽田五郎が始めたと言われます。
形は果実の棗から生まれたと言われます。
蓋を半月に持つというのは、棗の蓋を上からつかむように持つと、棗の蓋の表面と、指との間に、三日月形の空間ができます。それを半月といっています。
半月に持つと、見た目が美しくなります。鷲掴みにすると、武骨に見えて美しくありません。
茶杓を円く置くというのは、茶杓の櫂先を、まず蓋の向こうに置いて、しだいに前の方へおろすという意味です。
蓋の上が円みをおびているから、この用にして置くと、茶杓が安定し、見た目も美しく感じます。
●薄茶入蒔絵彫もの文字あらば順逆覚えあつかふと知れ
薄茶器は、真塗りや溜塗りの無地ばかりではありません。
絵巻地や、堆朱、鎌倉彫のように彫り物などが蓋から胴にかけて書いてある物もあります。
このような薄茶器を扱うときは、蓋と胴との出会い口を、よく見定めて、蒔絵や文字が、合うように注意します。
文字や模様には表裏がありますので、それもよく見定めて、拝見に出す場合など、裏面がお客様の方に向かないように注意します。
点前をする亭主だけではなく、お客様も表裏を見定めてから拝見するようにします
【一無位真人(いちむいのしんにん)】
「一無位真人」とは道家(老子や荘子の説を奉じた学者の総称)の言葉です。臨済禅師は説法の中で「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざるものは看よ看よ」と言われました。
西国巡礼の際に「同行二人」と書いた笠をかぶっています。弘法大師と一緒に巡礼している意味があるそうです。同行二人の一人は、欲望や感情のままに流されている日常的な自我といわれるもので、もう一人は「真人」といって本来的な自己、生まれたままの純粋な自分です。常にこの二人が私たちの生身の身体に住んでいる。
さらに「一無位」といって位置づけることもできない純粋な大自由人(真人)がいて、お前たちの眼・耳・鼻、全部の感覚器官の中より出たり入ったりしている。この「真人」のいることに気が付かないものは「看よ看よ(自覚せよ)」と言っています。
【騎牛帰家(きぎゅうきか)】
十牛図は中国の廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が、禅においては古くから人間の心を一等の牛と牧童にたとえて、牧童とその心である牛との対立から、牛と一体となって悟りを得る課程を、十の図解で頌(しょう)とでわかりやすく説いたものです。
尋牛(じんぎゅう)見跡(けんせき) 見牛(けんぎゅう) 得牛(とくぎゅう) 牧牛(ぼくぎゅう)騎牛帰家(きぎゅうきか) 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう返本還源(へんぽんげんげん)入鄽垂手(にってんすいしゅ)
● 参考文献
いっぷく拝見 千坂秀學 淡交社
利休百首 井口海仙著 綾村坦園書 淡交社
雅庵裏千家茶道教室では、毎月茶道講座を実施しております。